「あなたがいたからここまで来(ら)れた」

(本文とは全く関係ありません)本校図書室、蘭が咲いています。「環境のよい場所においていたら、勝手に?咲きだしました」ということです。この”勝手に~”は、教育の世界にも通じるかもしれませんね。
1学期期末考査も終わり、1学期の行事としては終業式を残すのみとなりました。何とか無事に終わることが出来そうです。そしていよいよ夏休み。ただ、留学前講座~留学する生徒たちの事前レクチャー~・夏期講習会~・補習授業等々夏休みに入っても7月初旬までは学校での学習指導は続きますが・・
まぁ、しかし、「コロナ」も一緒に夏休みになるわけではありません。むしろ「第7波」に入ったといわれています。変わらない、感染予防を心がけたいです。(皆さん、”鼻うがい”はとてもよいですよ)
さて、本日、ちょっとプライベートな話題でブログを更新します。PTAの広報誌用に書いたつもりが、あまりにもふさわしくないのでは?…と思って結局広報誌には載せず、ブログの更新用にしたのです。皆様、お時間がありますればどうぞお読みください。
「あなたがいたからここまで来(ら)れた」
最近読んだ本を紹介します。『走ることについて語るときに僕が語ること』(村上春樹著 文春文庫)です。私は村上さんの本を読むのは初めてです。だから、村上さんがフルマラソン(以下“フル”)やトライアスロン競技に出場していたこと初めて知りました。読んで、村上さんのレース前・中・後の、そしてトレーニングをしている時の様々な気持ちやその描写に共感することばかりでした。「この本は市民ランナーのバイブルだ!」と仲間にメールを送りました。あとがきの最後の文、「(レースで出会うすべてのランナーたち)あなた方がいなかったら、僕もたぶんこんなに走り続けられなかったはずだ。」…このことばには、胸を熱くしました。村上さんの語りたいことがこのひとことに集約された、そう思いました。
共感したのは、私も年に1回フルをやっているからです。走り始めたのはミネリアム(2000年)の数年前から。5㎞→10㎞→フルとやってきました。今は、私から数年遅れでフルを始めた親友と、11月第4日曜のレースを一緒に走っています。(一緒なのは前泊宿とスタートまで、そしてゴール後ですが)毎年、この時期にエントリーが始まります。「申し込んだよ」「じゃあ、今年も走るか…トレーニングしなけりゃ…」どちらからともなく短いメールのやり取り。「自分からは絶対“やめる”とは言わないぞ」お互い暗黙の誓い、同じレースで10回目になります。二人ともレースの日までには65歳になります。「あなたがいたから、続けて走れる」そのような気持ちに、少しだけなりました。
彼とは一緒の公立中高。私は文系大学、彼は理系大学。どちらも「学校という職場」で生涯働くのです。部活が好きで子どもが好きで教えるのが楽しくて…。「君と僕は親友だ」などと確認し合ったことはただの一度もなく、毎日一緒の場にいないと心配でならないといった心境になったこともありませんでした。ただ、「君に何かあったらいつでも飛んでいくぞ!」ことばに出さなくてもそのような思いはお互いにありました。(いつも彼に飛んできてもらっていた)
「あなたがいたからここまで来(ら)れた、続けられた。」マラソンレースのことではなく、いろいろな場面や様々なかかわりのある人たちとの中で、このような言葉のやり取りが頻繁であること。…卒業するとき、また卒業してもなお本校の生徒たちが、このように“友人”や“大人(教員だけではない)”を認識できるようになったら、そして学校という場にこそ、そのような土壌があれば本当に素敵だな、と思います。そして皆さんがそんな仲間を一人でももてることが出来たら…。新しい施設やカリキュラム内容でなく、生徒と教員、本校のかかわるすべての“ヒト”たちが、成長や向上心をキーワードに学校生活を送ることが出来たら…生徒一人ひとりにとっての「あなた」の存在があること。そのような学校、素敵ですね。そして、夏休み。学校という範疇ではなく様々な出会いがあるかもしれません。「あなたがいたからここまで来(ら)れた」このようにいえる人との出会いがあるとよいですね。
PS:しばらく“フルを走っていない”ある市民ランナーにこの本を紹介しました。ほどなく、「読みました。また走りたくなりました」と言っていました。このことば、私もうれしい~です。