3月11日を思い出す。そして・・
皆様ごきげんよう。本日は3月12日です。昨日書いたブログ内容をうっかり掲載するのを失念していました。一日遅れの3月11日の記事です。
皆さんごきげんよう。本日は3月11日、いうまでもなく東日本大震災の日。私としては、この職に就いている限り・・・鮮明に思い出す1日。9年前になりますね。今回は、あの日の様々なことを振り返り、今後の来るべき大地震に備える中高生を預かる学校としての姿勢を確認したいと思います。
私は、当時、在籍児童1000人の某区小学校の校長でした。“あの日”は確か金曜日、平成22年度最後の校長会でした。午後2時46分、バスを降りて会場に向かって2つ目の信号を渡った瞬間、“ぐらッ”ときました。近くにいた保育園帰りの母子が「わぁ~}と言ってその場に座り込み子どもは泣き始めました。私が小さいころ、私の祖母が“関東大震災(1923年9月1日)”の経験を「地面が波打っていた」と表現していましたが、確かに、コンクリートの道路がウエーブして、その上で停まっている車が上下に揺れている。私はなぜか、(運動会の障害物競走のように)とび上がったりしゃがんだりしながら、会場に向かって走り出していました。あとになって、「地震で家が揺れるのは、あれだけ地面が波打つから揺れるんだ」と、あたりまえのことを目の前で確認した感がありました。
校長会の会場に着いた瞬間、若手校長の私をいつも気にかけてくださっていたベテラン校長会長が、「大変な地震だ、野口さん、会議なんかやっていられね~よ」と言いながらコートを手にもって自分の学校に戻っていきました。次から次へと皆さんがタクシーを拾うために大通りに・・。「そっか、校長会も自然解散だな」・・・私も、運よくタクシーに乗ることができました。そのタクシーの中でも揺れるわ揺れるわ・・・余震ですね。渋滞の大通りも、運よく地元のタクシーで裏道・裏道を通り、1000人が避難している“校庭”にたどり着きました。たぶん地震が起きてから30分ぐらいだったと思います。
私が学校に戻った時、児童たちは整然と並び、しゃがんで待っていました。ベテラン副校長が、教員を指示し、毎月実施している“避難訓練”の通りに建物(校舎)から離れて待機させていたのです。1年生から6年生まで、一斉にかぶっていた防災頭巾が印象的でした。自慢することではありませんが(小学校では“当たり前”なので)発災して(避難指示が出て)校舎の外に出るのに(避難するのに)いつも4分以内と決めていましたので、たぶんその通りに近い避難ができたのでしょう。
“校長”が戻り、教員もホッとしたのか、少し安どの表情を浮かべる者もいました。私は“朝礼台”の周りに教職員を集め、無事に避難できたことにお礼を言い、現在の状況と今後の対応を確認しました。そして、児童への指示を私が朝礼台の上に立って簡易マイクで連絡しました。
まず、あの日はとても寒かったですから、学級学年ごとに(教員が校舎に入っても大丈夫かの確認をして・・・・あれだけの揺れでしたが、いくつかの箇所の何かが“落ちた”程度で人的な被害はありませんでした。)いったん児童を校舎に戻し、帰りの荷物をもって、慌てずに体育館フロア(1階のみの平屋)に再集合、そして迎えに来てくださった保護者に引き渡す、ということでした。そういえば・・・再集合(避難)するために、体育館に向かっていた時、ある6年生の男子児童が私のところによってきて・・・こう言いました。「校長先生、地震恐かったけど・・・だけど、(朝礼台近くで話をしている姿や私が朝礼台の上でマイクを握って話している姿の)先生たちはかっこよかったよ」と言ってくれました。彼が、何をもってかっこよかったと表現したのかは分かりませんし、聞き返しもしませんでしたが・・・確かに、言われて悪い気分ではなかった。9年たってもこの言葉は忘れないですね。
その後の対応はいたって簡単、とにかく保護者に迎えに来てほしい旨緊急連絡アプリで送信し、保護者が迎えに来たら引き渡す、ということです。それを全職員で1000人分やりました。アプリ送信の前に迎えに来た保護者も大勢いましたが、結局は、(校長の)私だけ残って、最後の3年生の男子を引き渡したのが夜の12時30分でした。保護者の方は東京都水道局の方(公務員)でした。
私は、その夜ようやく在京の家族に連絡が取れました。妻も娘も家に戻れず、勤務先やお友達の家に泊めてもらうことで安心できたのですが、一番揺れの大きかった東北、仙台の大学にいた息子との連絡が取れず、一睡もできずに、携帯電話をかけてもかけてもつながらなかったあの日の夜は忘れません。まさか海辺近くのサッカーグラウンドで練習中、今テレビで見ている津波に飲み込まれてしまったのではないか・・という不安感が、寒い主事室(用務員室・・・結局私はその夜は学校に泊まった)をさらに寒くさせていました。そして、翌日、帰宅してシャワーを浴び、風呂場から出てきた瞬間の電話の音は、やはり忘れられません。息子からのいつも通り拍子抜けした「あぁ~無事だよ」の声に思わずどっと涙が出ました。・・・・
相変わらず、長々と、書きたいことを書いて・・。申し訳ありません。
私は、被災にあって亡くなったり、被害にあった身内がいたわけでもありませんし、そのような知り合いさえいません。直接間接の被害もなかった一方で、それでもあの時の怖かった思いと家族がどうなっているかの心配を忘れることはできないし、忘れてはいけない。加えて、日中学校で中高生に学習生活を送らせている立場として、あの時どのように対応していったのか、同じようなことがあった時どのような対応をしなければならないのかを常に考えていなければなりません。平成22年度(平成23年3月)に小学校6年生だった彼ら彼女らは、すでに社会にでて職業生活を始めている人もいるでしょう。「地震恐かったけど、先生たち、かっこよかったよ」と言ってくれた彼は、今“弱い人たち”に対してかっこよく生活しているだろうか。私たち大人は若者に対して職業人としてのロールモデルになっているだろうか。この日を迎えるたびに、自分自身のこれからのあるべき姿を見直しているのです。
生徒のいない学校は、実にさみしい。いつまでこの異常事態が続くのか、緊急体制を続けなければならないのか、公私立問わず悩みと思案がつきません。報道も“〇歳代の方がお亡くなりになり〇人目です”だけではなく、“感染した方々が〇人社会復帰しています”ということも積極的に報道してほしいですね。(昨日の夜のニュースはそのような数値も挙げていました)この梅から桜に向けてのこの期間、卒業する生徒のみならず、進級する生徒も、そして大人としての教師も、学校における1年度間の様々な取組に対して“振り返りとまとめ”と“次年度はこうしよう”といったことを考えて4月を迎えるわけですが・・・(実は、この時期がなければ、長い教師生活は続かなかったかもしれないとさえ思う)・・・結局“無事に終わった”感をもたないで次年度に突入してしまう・・これがなんとも今までの“学校文化”として考えるに、とてももどかしく、残念でなりません。